「江戸を斬る」「大江戸捜査網」「大岡越前」「飛んでる平賀源内」……。
数え始めたらキリがない。
おばあさんの家でも、子どもの頃に入院した病院でも、お年寄りと一緒にいる時は、なぜか必ず時代劇が流れていた。
だから私の中には、ひとつの価値観が自然と刷り込まれた。
悪いことをすれば、最後は裁かれる。
困っている人がいれば、誰かが助ける。
そして、正義は最後に勝つ。
もちろん、現実はそんなに単純ではない。
それでも、子ども心にこれはやっちゃダメだろと思ったことは、やはり劇中でも悪として描かれ、最後にはきちんと決着がつく。
その安心感があった。
時代小説も同じだった。
私は池波正太郎先生の作品を、ほぼ全巻読んだ。
先生が通われた店を紹介した料理本まで読み、実際にその料理を自分で作って、物語と一緒に味わった。
何歳になって読み返しても、「そうなんだよ。そう生きたいんだよ。」と思う。
登場人物の生き方だけではない。
物事の決着のつけ方に、深く共感するのである。
だから今でも、自分の善悪を判断する軸のどこかには、時代劇や時代小説が残っている気がしている。
そして、私と同じような世代には、そんな価値観をどこかで共有している人も少なくないように感じる。
ところが最近は、少し違う。
ニュースを見ても、SNSを見ても、
「いや、それはダメだろ。」
そう思う出来事が、ダメなまま終わることが少なくない。
説明もない。
責任も曖昧。
時間が経てば、次の話題へ流れていく。
決して悪が勝っていると言いたいわけではない。
ただ、最後にきちんと決着がつくという安心感が、社会から少しずつ減っているように感じるのである。
だからなのか、人はSNSで自分なりの裁きを求め、正義を振りかざしやすくなるのかもしれない。
しかし、その正義も、ときには暴走し、新たな被害を生んでしまう。
時代劇は勧善懲悪だった。
でも、本当に教えてくれていたのは、悪人を斬ることではない。
実際には峰打ちで終わる場面も多く、その後は法によって裁かれる。
遠山の金さんも、大岡越前も、水戸黄門も、力を持つ者ほど自らを律し、公平であろうとする姿を描いていた。
権力とは、自分のために使うものではなく、人のために使うもの。
そんなことを、子どもにも分かるように教えてくれていたのだと思う。
そう考えると、現実の世の中には、水戸黄門も、遠山の金さんも、大岡越前もいない。
だからこそ、一人ひとりが、
「これは本当に正しいのか。」と考え続けなければならないのだろう。
あの頃の時代劇は、子ども向けの娯楽ではなく、大人になるための道徳の教科書だったのかもしれない。
これは、あくまで私のような50代が感じることなのだろう。
でも、どの時代にも、どの世代にも、人として何が正しいのかを自然に教えてくれる物語があり続けてほしいな。
そんなことを、最近よく考える。
オーティス株式会社 OTIS Co.,Ltd.
角本康司
